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放出品について

去年の後半あたりから高額種にも手を出すようになってしまって、現在のところ4点ほど買ったことになる。これらがうちに来たことで、従来の安価なものがどういう影響を蒙ったかといえば、影響らしい影響はほどんどない。棚に並んだおもにヨーロッパ産の三葉虫たちはあいかわらず魅力的で、場合によっては高額種よりもいっそ蠱惑的に映る。安いものが高いものに比べてまったく見劣りしないのは私には嬉しいことで、自分の選択が大筋においてまちがっていなかったと知って意をつよくする。

そういっても、こちらの関心の移り変りによって当初の魅力を失ってしまった標本ももちろんある。数はそんなに多くないけれども、眺めていてもいっこうに楽しくならず、もっていることが重荷に感じられるような標本。これらをどうするか。うちにあっても持主に疎んじられているのでは標本も立つ瀬がないだろう。やはり新たな持主のもとへ行くほうが、かれらにとっても幸いなのではないかと思う。

そこで放出品についてちょっと考えてみる。ひとくちに放出品といっても、私のような底辺の蒐集家の出すものと、大コレクターの出すものとでは同日の談ではないだろう。それはそれと認めたうえでいうのだが、やはり放出されるものは放出されるだけの理由がある。それはひとことでいえば「つまらないから」というに尽きる。よほどの事情があって手放されたものでないかぎり、前所有者に飽きられたものは新所有者にも飽きられる可能性が高い。

標本というのは、買う前はそのいいところばかりが目につき、買ったあとはそのわるいところがことさら目につくようになる。この一見目につきにくいけれども、いったん発見されたが最後、どこまでも気になる短所とどうつきあうか、折り合いをつけられるかが問題だ。

理想的なのは、欠点があるにもかかわらず好き、という域を超えて、欠点があるからなおさら好き、といえるところまで行くことだ。いうところのあばたもえくぼ。しかしこれはいろんな意味でむつかしい。とくに化石のような無生物の場合、見た目が魅力のほとんどを占めるので、あばたはあばたにしか見えないのである。

そこで次に考えられるのは、欠点を補って余りあるような、圧倒的な長所がその標本にあることだ。じっさいのところ、完全無欠ではない標本を完全なもの以上にするのはこの圧倒的な長所の存在なのである。それがあるからこそ標本が魅力に輝き、しかもその輝きがいつまでも褪せないのみか、日を追うごとにいや増すような、そういう長所があれば欠点などは問題にならない。

この長所が標本そのものに内在するなら鉄壁の構えで、おそらくその標本はながく所有者のもとにとどまるだろう。しかしそうでない場合は、やはり関心の移り行きとともに長所が長所でなくなることもあるだろう。

つまるところ、本質的に優れていない標本は遅かれ早かれ放出される可能性があるのだ。

だから買う方も、安いからといって安易な気持で買うと、あとで後悔することになる。画像だけで後々気になるであろう欠点まで見極めるのは至難のわざだが、それでも注意するに越したことはない。まあこれは何度か買って失敗を重ねるよりほか、有効な対策はないのだが……

話が逸れてしまったが、もともと何かまとまった話をしようとしていたのではないので、このへんでご勘弁を願います。