ダイフォンについて

待てば海路の日和あり。ぜったい入手不可能と思っていた本種を手にする日が来ようとは……*1


Deiphon barrandei



体長は 16mm と小さいが、幅があるのでけっこう大きくみえる。ダイフォンの模式種である D. forbesi がチェコで産出するのに対し、こちらは英国ウスターシャーのマルヴァーン(malvern)近郊で産出したもの。英国ではマルヴァーンだけでなく、ダドリーでも産出したらしいが、部分化石はそこそこ出るものの、全身揃ったものは稀産中の稀産とのこと。

ことはボヘミアにおいても同様で、バランド先生もだいぶ骨折って探したようだが、ダイフォンの完全な標本は見つからなかった。先生の1872年の図版集に出ている完全体は、二個の不完全な標本をもとにして復元したものらしい。


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さて、私がこのダイフォンという三葉虫を知ったのはいつだったか。おそらく金子隆一氏の「ぞわぞわした生きものたち」を読んだのが、その初めだったような気がする。この本の69ページにはこう書かれている。

どことなく杉浦 茂ふうのテイストを漂わせた P.70 の生物は、異形の三葉虫として古くから名高い、ファコプス目ケイルルス科のダイフォン(Deiphon)である。模式種 D.フォーブスイ(D. forbesi)がボヘミアチェコ)のシルル紀中期(4億2820万~4億2290万年前)の地層から発見され、プラハ在住のフランス人研究者ヨアキム・バランデによって記載されたのは1850年のことだが、以来、イギリス、スペイン、カナダ、アメリカなど各国でその化石が見つかり、現在その種数は17、生息年代もシルル紀後期(~4億1870万年前)におよぶ。球状に膨らんだ頭部には脂肪ないし油が蓄えられ、これで浮力を生みだして海の表~中層を泳いでいたという説と、海底をゆっくり動く底性生活者だったという説がある*2


これと前後して手に入れた信山社の「世界の三葉虫」に、ダイフォンのレプリカの画像が載っていて、これがレプリカであるにもかかわらず表紙を飾っているのが衝撃的だった。私はこの本の記述を鵜呑みにして、モロッコのシルル系からは6センチほどのダイフォンが産出すると長いあいだ信じていた。

現在、このレプリカをたんなるでっちあげと見るのはたやすい。しかし、もしかしたらほんとうにモロッコでそういう化石が出たのかもしれないし、レプリカはそれを基にして作られたのかもしれない。根拠はないが、私としてはそう考えておきたいところだ。

上に引いた金子氏の記述には「古くから名高い」とあるが、その古さとはどのくらいのものか。日本では昭和41年(1966年)発行の「原色化石図鑑」の28ページに、「シルル紀三葉虫には、他にも派手な外観をもつものがあり、中でも図に示したカェルルス類のダイフォン(Deiphon)は、頭が丸くて大きく、しかも胸の両側葉が棘状になった、まるで骸骨のような奇異な体制をもつ三葉虫の例である」と図入りで説明が出ている。

それより前の、たとえば昭和29年(1954年)に出た、小林貞一らの「古生物学」(朝倉書店)には、ダイフォンへの言及はあるものの、その体制や図が出ているわけではないので、昭和41年の「原色化石図鑑」あたりが古さの上限かとも思うのである。Deiphon をデイフォンではなくダイフォンとドイツ語式に読むのも、本書から始まったのではないか。

もし「原色化石図鑑」よりも前にダイフォンを紹介した日本語の文献をご存じの方がおられたら、ぜひお知らせください。


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海外ではまずジョアキム・バランドの記載論文(1850年)、それともちろん「ボヘミア中央のシルル系」の第一巻(1852年)がある。残念ながらこれらの著作は電子化が遅れているようなので、見たくても見られない。そこで次に見るべきは、1865年のソルターの論稿(のちに「英国の三葉虫」に収録)であろう。ここには、バランドの業績を受けて、英国で産出したダイフォンに関する記事が図版入りで出ている。

ここではまずソルターがダイフォンについて、"this most odd-looking, rare, and precious Trilobite" と書いているのが印象的だ。英国のダイフォンは、ボヘミアのものと比べてやや小ぶりで、大きくても1インチを超えない。ほかにもボヘミア産のものと比べていろいろと相違点があるので、英国産はもしかしたら別種と考えるべきなのかもしれない。それならば、名前を改めて、この属の発見者である偉大な古生物学者(つまりバランドのこと)にちなんだ種名をつけるべきではないか……

このソルターの提案は、70年後にホイッタードによって実現されることになる。つまり、私が今回入手した Deiphon barrandei Whittard, 1934 である。

さて、その偉大な古生物学者のほうはといえば、1872年に「シルル系」への補遺を書いて、そこでソルターへの回答というかたちでダイフォンに言及している。

バランドはまずソルターがあげた英国とチェコのダイフォンの相違点を書き出す。

1.英の方が、頬棘が弓なりになっている。
2.頬棘のツブツブは、英国産のほうがより鱗状である。
3.チェコのものの個眼が約200個なのに対し、英のはもっと細かい(多い?)というが、ソルターが図を出していないので確認のしようがない。
4.われわれが尾板の上側の肋と解するものを、ソルターは胸節の末端と解する。英国産のものは癒合が完全に行われておらず、ここに隙間があるからで、つまりこの見方からすると、胸節は10あることになる(われわれの見方では9)。

しかしこんなのは、とバランド先生は言う、標本の年齢がまちまちなことから生じただけの、小さい差異ではないか。それよりももっと注目すべきは、胸部の肋を上下に二分する溝ではないか。チェコのものが肋のほぼ中央を走っているのに対し、英国のは明らかに上寄りで、上下の部分が不均等になっている。もっとも、ソルターの図はあまり正確とはいえないので、この点を主たる相違点とするのは困難ではあるが……

どうもこういう記述を読んでいると、バランド先生がだんだん嫌な人間にみえてくる。自分のことを「偉大な古生物学者」と呼んでくれたソルターに対して、これではいささか礼を失しているのではないか。

とりえあずここには、ソルターの本から英国のダイフォンの図を出しておこう。



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金子氏はダイフォンを評して「杉浦茂ふうのテイスト」というが、私はあの頭のつくりを見ていると、ドイツ表現主義の映画「ノスフェラトゥ」を思い出す。マックス・シュレック扮する吸血鬼と、三葉虫界の骸骨男ことダイフォンとのあいだには奇妙な類縁関係があるように思うのだが、どうか。


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ダイフォンの名の由来だが、どうもギリシャ神話中の一人物から取られたようだ。Deiphon ──ギリシャふうに読んでデーイポーン(Δηιφὼν)──はまたの名をデーモポーン(Demophon)といい、その伝承にはいくつかヴァリエーションがある。そのうちのひとつをアポロドーロスの本から引用すると──

ケレオスの妻メタネイラに一人の子供があって、これをデーメーテールが引きとって育てた。彼を不死にしようと思って夜な夜な嬰児を火中に置き、必滅の人の子の肉を剥ぎとろうとしていた。デーイポーンは──これが子供の名前であったが──日毎に驚く程成長したが、メタネイラが女神は何をしようとしているかと見張っていて、火中に入れられているのを見つけて大声をあげた。それがために嬰児は火に焼きつくされ、女神は本身を現わした。
(高津春繁訳、岩波文庫より。一部改変)


火に焼きつくされて骨だけになってしまった、ということだろうか。


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チェコの切手

泳ぐダイフォン(MightyFossils - YouTubeより)

consuella2293 さんによる、時空を超越したダイフォンの造形(→ Deiphon forbesi


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Barrande の1850年の記載論文をネット上で見つけた。→Bericht über die Mitteilungen von Freunden der Naturwissenschaften in Wien
全部で4ページほどの短いもので、ダイフォンに関する部分はさらに短い。文中、"Unter den bizarrsten Formen der böhmischen Trilobiten (...) befindet sich der Deiphon Forbesi Barr." とあって、はからずも上にあげたソルターの評言を思い出させる。下に全文をあげる。






ボヘミア三葉虫のうちでももっとも異形で、その完全な復元を断念せねばならなかったもののひとつに Deiphon Forbesi Barr. があって、私はこれの頭と尻尾しか知らない。添付の図から分るように、この三葉虫の記載はごく簡潔に済ますことができる。


頭部は球状の頭鞍 a から成っていて、その両側から円筒状の付属器もしくは後方に弓なりに湾曲した尖端 b が出ており、その根元のところに眼 c がついている。眼には明らかに個眼が認められる。眼にはいかなる顔線も伴っていないが、これは三葉虫にあっては非常に稀な現象である。もっとも我々はそういった例をすでにいくつか知っていて、たとえば、Acidaspis Verneuili Barr. や Ac. vesiculosa Barr. などがそうである。


尾部もまた頭部に劣らず特異な形をしている。軸部 e,e には関節面のない五個の環が識別できる。最初の輪の両端からは垂片もしくは独立した尖端 d が出ている。続く四つの環の付属器は側面で癒合し、まとまって一本の弓なりに湾曲した尖端 f となっているが、これは頭鞍の横から出ているものと非常によく似ている。外殻の表面は細かい顆粒に覆われ、それらのあいだにやや大きめの粒々が撒布している。こういったところが、私がこの特異な三葉虫について知っていることのすべてである。


なお次のごとく付言することができるのは私の大いに欣快とするところである。すなわち、ダドリー在住のわが友人フレッチャーから本日只今受け取った化石のなかに、Ceraurus globiceps の名を付した頭部の標本が入っていて、これが私のただいま記載したものと非常によく似ており、あるいは同一種かと思われるのである。これは、かの二つの地質学的地域を結ぶはるかな連環の一例である。Ceraurus という名は、Deiphon とはまったく別の種類に属する。


文中にある Ceraurus globiceps は、今日いうところの Sphaerocoryphe globiceps であるが、フレッチャーがバランドに送ったのは、おそらくスフェロコリフェではなくてダドリー産のダイフォン、すなわち Deiphon barrandei だと思われる。それでなければバランドが同一種とみなすことはありえないからだ。

*1:ほんものではなくてレプリカだが

*2:ウィキペディアの記述によって少し補っておくと、底棲生活者としてのダイフォンの頭のこぶは、捕えた獲物を一時的に格納する貯蔵庫のようなものだったという

ホプロリカス・プラウティニ

昨日、郵便屋さんから荷物を受け取ったとき、いやな予感がした。というのも、その小包のなかで何か重いものがゴロゴロと音を立てて転がっているのだ。もしやという気持と、そんなことがあるはずないという気持のせめぎ合いのうちに荷解きをしてみると──

タッパーが破損し、標本は台座を外れて無残にもタッパー内へ放り出されている!




こんな状況で標本が無事で済むわけはない。見ればあちこち傷んでいる。いちばん目立つのは頭の上のトゲの破損、それから右の頬棘の先が飛んでいること、頭鞍の小さいイボが三つほど潰れていること、背中のイボも二つ潰れていること、左目の上が少し擦れていること、など。

こう書くと満身創痍のようだが、じつのところ、過酷な状況に置かれていたわりには、被害はそれほどでもない。額環のトゲ以外は、よほど注意深く見ないと破損個所がわからないくらいだ。意外と丈夫なものだな、と妙に感心してしまった。




被害状況を報告して、荷主に相談したところ、標本はこっち持ちで、全額返金するという。それではあんまりなので、売値の1/3を支払うということでけりがついた。頭のトゲが折れているとはいえ、6㎝のリカスがこの値段で手に入るなら文句はない。

さっそく折れたトゲの補修にかかる。段階的に、三度にわたって折れたようで、尖端は紛失している。残った二つのトゲをくっつけて、さらに本体に接合するのだが、なかなかうまく行かない。しかしまあ、なんとか我慢できる程度には仕上がった。

頭のトゲ以外の破損個所については、この標本が修復率12パーセントであることを思うと、そんなに神経質になるほどのことでもないような気がしてくる。どのみち完璧からは程遠いのだ。細かいことにこだわっていても仕方がない。


Hoplolichas plautini





さて本種だが、これまではほとんど眼中になかった。というより、無意識のうちに遠ざけていたといったほうがいいかもしれない。なぜかといえば、その姿かたちがあまりにも映画の怪獣によく似ているからで、こういうものに興味を示すのは、自分の幼稚さをさらけ出すようで気が引けた。

しかし、よくよく考えてもみよ。リカス類というのはどれをとっても、程度の差こそあれ、怪獣を彷彿させないものはない。ボンメルのいう formes monstrueuses は、端的に「怪獣のような姿かたち」と解するのが妥当だ。そして、そういう見地に立てば、ホプロリカスを幼稚だと断じて遠ざけるのは愚の骨頂である。なぜなら、それをいいだせば、他のリカスすべてが幼稚ということになってしまうのだから。

というわけで、つまらない虚栄心や先入観を取り払って眺めてみると、今回の標本もなかなかのものに思えてくる。少なくとも、リカス入門にはうってつけなのではないか。まずサイズがそこそこある、外殻上のツブツブが健在である、特徴的な尾板がよく確認できる、全体的なフォルムが怪獣的である、等々。

頭上のトゲについていえば、これあるために本種の怪獣度がぐっと上がっていることは否めない。下手な補修でも、ないよりはましだろう。

難をいえば、圧縮のせいで形がややいびつになっているが、この程度ならばじゅうぶん許容範囲内だ。むしろこのいびつさが、心理的な「偏倚」となって、私を次なる標本へと駆りやる原動力になるのである。


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「ロシアのオルドビス紀三葉虫」という本を見ると、ロシアで産出するホプロリカスの仲間が4種類あがっている。まあ、おおまかに4種類に分けられるということで、市場に出回っているものはとても4種類では収まりそうもない。それほど多種多様なものが並ぶホプロリカス類だが、これはプレップの方法にも問題があって、プレパレーターが勝手にトゲを植えつけて派手に見せるケースも少なくないようだ。いかにもロシアならではの手法で、すごいといえばすごいけれども、冷静に考えればやはりおかしい。

まあ、やっても意味はないことは承知の上で、いちおうその4種類の区別を書いてみよう。

1.角(額環のトゲ)が二又に分かれていたら、無条件でホプロリコイデス・コニコツベルクラトゥス(Hoplolichoides conicotuberculatus)。

2.角が一本で、太くて長くて直線的だったら、ホプロリコイデス・フルキフェル(Hoplolichoides furcifer)。

3.角が一本で、ほっそりと湾曲していたら、ホプロリカス・プラウティニ(Hoplolichas plautini)。

4.角が一本で、かつ頭部前方に4本ほどヒゲのような長いトゲが突き出ていたら、ホプロリカス・トリクスピダトゥス(Hoplolichas tricuspidatus)。

じっさい、2、3、4は区別がむつかしい。2の頭部に数本ヒゲを植えれば、4とほとんど区別がつかなくなってしまう*1。そしてこの4がホプロリカスの模式種で、1がホプロリコイデスの模式種というのだが、ロシア産にかぎっては、この二属を別々に立てる必要があったのかどうか、疑問に思う。というのも、2と3などは、属は異なれど、ツノの形状以外はほとんど同一なのだ。市場で名称の混乱が起るのも当然というべきだろう。

*1:尾板の形状は異なるようだが

三葉虫人間はどこにでもいる

「週間はてなランキング」とかいうのが目についたので見てみると、はてなブログでブックマークが何百とか、ものすごい数字が並んでいる。このあたりははてな村(今でも使われているのか?)の絶巓であり、極北である。自分のところと比べることさえおこがましいが、私のブログは4年近くもやっていて、アクセスは日に10人ほどで、ブックマークのごときは全記事あわせても一つだけ。いったいどこからこの差は出てくるんだ、と思う間もなく、三葉虫がテーマではそれもしかたないな、と思う。みなさんも心当たりがあるだろう。職場で、あるいは学校でもいいが、まわりに三葉虫を集めている人が何人いるか。たいていは一人もいないでしょう?

というわけで、マイナー分野をテーマにしたブログが読まれないのは当然のことなので、私がわるいわけではない。だれがやったって、そう、〇〇の巣穴や〇〇の世界や〇〇収集ブログのような、この世界ではメジャーどころであっても、注目度はたいてい☆ひとつが限度なのである。

話は変るが、私がいつも持ち歩いているクリアファイルには、バランド先生の図版集のページをプリントアウトしたものが入れてある。私としては洒落のつもりなのだが、もちろんそんなものにはだれも関心をはらわない。私もふだんはそういうものがファイルの表紙になっているのを忘れている。

あるとき、スタンドで給油していると、作業員が「おもしろいですなあ、化石ですか」といきなりいうので面食らってしまった。化石なんてこの車に置いてないぞ、と怪訝な顔をしていると、その人は窓越しにクリアファイルを指さして「それ、化石じゃないんですか?」という。はっとして、「はい、そうです。三葉虫です」と答えてしまった。

いままで社内で何人もの人に見られながら、それが三葉虫であることはおろか、化石であることにすら気づいてもらえなかったのに、スタンドの作業員に一発正解してもらえたのはじつに嬉しかった。化石の愛好家は意外なところにいる。ふだんはいないようにみえて、じつは電車であなたの隣に座ったひとが「三葉虫人間(Trilobite person フォーティの造語)」かもしれないのだ。

それ以来、見ず知らずの人がのぞきこんでいるスマホに自分のブログが出ていたら、というようなことを夢想するが、もちろん現実にはそんなことは起こりっこない。

化石や鉱物の手入れ

みなさんは標本につく埃はどうしてますか?

自分はケースに入れて保管しているから、埃なんか気にしない、という方もおられるでしょう。まあそれはそれでかまいませんが、ケースに入れているからといって、埃が付着しないとはかぎらない。まったく、埃というやつはどこからでも侵入する。それに、埃でなくても、脱脂綿やなんかの綿ゴミが標本に纏わり付いてる場合もある。ふだんは分らなくても、画像を撮ったりすると意外にゴミだらけ、ということもあるだろう。

さて、この標本に付着する埃だが、見た目がよろしくないのは当然として、いったい実害はあるのだろうか?

私はあると思う。たとえば、鉱物や化石を扱っている店の棚の下の方にしまいこまれた三葉虫たち。それらを見ると、母岩ともどもなんとなくくたびれて、煤けたようになっている。たんに表面が薄汚れているのではなく、標本の内部にまで汚れが沁み込んでいそうで、布で拭ったくらいでは簡単にきれいになりそうにない。これは長年にわたって標本に積もり積もった埃の作用でこんなふうになってしまったのではないか。

まあ化石の場合、ある程度の古色はかえって標本の品位を高めるかもしれない。問題は鉱物だ。これは硬度が低くなればなるほど外部からの作用の影響を受けやすくなる。それは見やすい道理だろう。埃くらいならまだどうにかなるが、タバコの煙なんかはてきめんに悪影響を及ぼす。煙の粒子が鉱物の表面に付着し、徐々に変質させていくのは自分の手元にある標本をみればわかる。それはもう水洗いしようが洗剤で洗おうが、ぜったいに元の状態には戻らない。

というわけで、せっかく手に入れた標本をなるべく長く元の状態のまま保管したいと思う人々にとっては、埃対策にもそれなりに気をつけなければならないのである。

私は最初、カメラのレンズの埃を飛ばすゴム製のブロワーがいいんじゃないかと購入してみたが、これはほとんど使い物にならなかった。埃というものは意外に粘着性があって、そう簡単には空気では飛ばせない。それに、繊細な標本の近くにこれを持っていってシュポシュポするのは、先端を標本に当ててしまいそうでこわい。まあないよりはマシ、といったレベルで、これはあまりお勧めではない。

私が標本の埃落としに使っているのは、パソコンのモニター用の刷毛だ。これは静電気の作用で埃を除去してくれるらしいが、正直いって静電気が効いているのかどうか定かではない。ただ、毛が非常に細く柔らかいので、たいていの標本に使っても大丈夫だ。究極のトゲトゲ標本といえるコネプルシアの逆立ったトゲをかき分けるようにして外殻の埃を除去しても、トゲにはまったくダメージを与えずにすむだろう。それに、刷毛の長さを調整することでコシの強さに変化をつけられるのもいい。しつこい埃には刷毛の長さを短くすることで対処できる。

鉱物の場合、化石とは比較にならないくらい表面の構造が繊細なものも少なくないが、いちおううちにある鉱物はどれもこのブラシできれいに掃除できる。脆いので有名なジプサムでもまったく問題ない。オーケン石くらいになるとちょっと心配だが、いつか手に入れたら試してみよう。


【2006年モデル】ELECOM コンパクトブラシ KBR-006BU

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グリーノプス・ウィデレンシス

「ニューヨークの三葉虫*1」という大判の本を飾る(?)何種類ものグリーノプス。その魅力的な画像を眺めながら、自分もいつかはニューヨークのグリーノプスを、と思っていたが、なかなかこれといった標本が見つからない。上記の本のすばらしい画像を見ているだけに、中途半端なものは買う気がしないのである。これはもうだめかな、と諦めかけたときにふと目についたのがカナダ産のグリーノプスだった。

カナダ、とくにオンタリオ州の南のほうでは、オルドビス紀三葉虫がよく産出するようだが、デボン紀のものはどうか。AMNHのページを見ても、載っているのはグリーノプスとファコプスだけで、最後のカリメネといわれる Calymene platys を加えても三種類にすぎない。これらのうち、ファコプスとカリメネはかなりの稀産のようなので、実質的にはカナダのデボン紀三葉虫といえば、グリーノプス一種類で代表させているのが現状ではないだろうか。

まあそれはともかくとして、ニューヨーク産が手に入らない以上、カナダ産につくよりほかない。なんといってもオンタリオ五大湖をはさんでニューヨークの反対側にあるので、地層的にはいちばん近いと思われるからだ。画像で見るかぎり、カナダ産のグリーノプスにはニューヨーク産ほどのオーラは感じられないが、それももしかしたら私がかってに作り上げた幻想かもしれないではないか。

というわけで、とりあえず手に入れたのが下の画像のもの。大きさは27㎜で、右の頬棘は前所有者が逆さまにつけていたのを正しい向きにつけかえた。


Greenops widderensis






買ったときは Greenops boothi という名前がついていたが、これはおそらく妥当でない。カナダ産のグリーノプスが G. boothi にきわめてよく似ていて、ほぼ同種であるとしても、細かく見ていけばやはり違いはある。数あるグリーノプスのうちでも、boothi といえば模式種なので、自分としてはやはりそれなりの敬意は払っておきたい。そして、カナダ産のは産地(Widder)の名前をとって widderensis としておくのがいちばん無難で分りやすいと思う。

ニューヨーク産のグリーノプス類については、上記のコーネル大の本(pp.129 - 130)に相違点が細かく書かれているから、興味のある人はそちらに就かれたい。ここではごくおおざっぱにその要点だけ書いておこう。

まずグリーノプスとベラカートライティア(Bellacartwrightia)の見分け方。

→中軸に棘が並んでいればベラカートライティア、なければグリーノプス。

ベラカートライティアには5種類、グリーノプスには3種類ある。前者はさておくとして、後者の見分け方を書いておくと──

→額環に目立った突起があれば G. boothi
→額環に目立った突起がなく、かつ尾板まわりのトゲが尖っていたら G. barberi
→額環に目立った突起がなく、かつ尾板まわりのトゲが尖っていなければ G. grabaui

こんなところでどうだろう。

*1:Trilobites of New York, Th. E. Whiteley et al., Cornell Univ. Press