ファコプスの館 -La Maison de Phacops

化石ヲ蒐集シナイ日記

無一物の蒐集家

化石標本を大量にもっている人を想像してみる。彼の何千という標本は、いずれもしかるべき場所に保管されていて、ふだんは目につかないようになっている。彼は新しい標本を手に入れることに夢中で、すでにもっている標本を眺めることなどはしないのである。

さて、彼の知らないあいだに、それらの標本がごっそり盗まれ、かわりに石ころがケースに入れられていたとしよう。標本を眺める習慣のない彼は、化石が一夜にして石ころに変っていることなど知るよしもない。彼にとっては、化石はもとのまましかるべき場所に保管されている。つまり、この時点では彼の標本はひとつもなくなっていないのである。

客観的にみれば、彼はもはや化石コレクターではない。もっているのは石ころばかりだ。しかし主観的には依然として何千という標本の所有者であり、それらの標本は手つかずのまま、厳重に保管されている。彼はコレクターとして心安らかに生き、かつ眠ることができるだろう。

設定にやや無理があるが、このようにひとは無一物でありながら大蒐集家になることができるのである。

私も「蒐集しない蒐集家」を目指すならば、このように「現実にはもっていないものを観念的にもっていると思い込む」ための方法を確立しないといけない。

そのためにはどうするか。

私にとって、「パサージュ論」の著者ベンヤミンと、「ロリータ」を書いたナボコフがそういった観念的な蒐集家の先達である。蒐集しない蒐集家というのでまず思い浮かぶのはこの二人だ。

おおざっぱな見通しとしては、パサージュ論を書くことによってパサージュを自らの内部に「所有」し、そのパサージュのなかに全パリを収め、そのパリのなかに全フランスを、さらには十九世紀の全ヨーロッパを、ひいては全世界を包含するというのがベンヤミンの手法だった。これは一種の壺中天であり、小さいもののなかに大きいものを入れるというやり方だ。

いっぽうナボコフはといえば、ロリータという名前を考案し*1、それをみずからの小説のヒロインにすることで、たんなる固有名詞を普遍にまで高め、古今東西のニンフェットをことごとくロリータの名のもとに糾合し、永遠に自己の所有物としてしまった。これはエドガー・ポオにもルイス・キャロルにもフェーリクス・ザルテンにもできなかった離れ技である。

私はかれらのこういう行き方にひどく心惹かれるものを感じている。それはマイナスの札ばかり集めてプラスに転化するような、狡猾なわざかもしれないが、現実原則をつきつけられた人間が、なおも快感原則に忠実なままに生きるにはどうすればいいか、ということに対するヒントがそこにはあると思う。

誤解があるといけないのでひとこと付け加えておくと、ベンヤミンは名だたる古書の蒐集家であり、ナボコフは世界的な蝶の蒐集家であって、「蒐集しない蒐集家」のカテゴリーには当てはまらないようにみえるかもしれない。しかし、私にとって興味があるのは、そういう具体的な蒐集の先にある、いわば超越論的蒐集の領域なので、現実におけるかれらの個々の蒐集は、この領域へ踏み込むための準備作業にすぎないと思っている。


     * * *


もうこのへんで読むのがいやになっている人もいるだろう。しかし、読まれなくても書くというのがこのブログの基本方針なので、先をつづけよう。

ベンヤミンの方法から私が考えるのは、化石の世界、もう少し狭くとって三葉虫の世界をそこから見渡すための、展望台付きの常駐地を自己のうちに確立することだ。これは私の場合、十九世紀のボヘミア以外に考えられない。つまるところ、ジョアキム・バランドを先生とし、パラドキシデスを守護神とした初期の私の方向性をいっそう確固たるものにすること、これに尽きるのである。

この方面では、いまのところどうにもならない障碍がひとつある。それはバランド先生の著作の第一巻、三葉虫篇がいかなるかたちでも披見できないことだ。私はフランス語をよくするものではないが、この千ページになんなんとする大著だけは通読したいと思っている。もしこれのpdfなりオンライン版なりをご存知のかたがあったら、ぜひお知らせください。

先生の1872年の補遺のほうは少しは読んでいるけれども、そこに見られるのは全ヨーロッパを結ぶ三葉虫ネットワークとも称すべき、見えざる共同体の存在である。先生の業績は、すでにかなりの蓄積のあったボヘミア三葉虫に関する研究成果と、当時の汎ヨーロッパ的な三葉虫熱の高まりとが交差する地点において沸騰点に達した。その熱気をとりあえず自分のものとして確保したいという気持がある。

そこから先、私の探求の標的になるのは、個々の標本ではなく、標本の標本たるレプリカでもなく、もっぱら画像と表象になるだろう。言葉でもなく、物でもない、しかし観念的にはその両者の化身ともいうべき表象というものが興味の中心になっていくだろう。


     * * *


いっぽうナボコフから学ぶもの、それは名前というものがいかに大切かということだ。もし彼の小説が「ピッピ」とか「アン」とか「ハンナ」とかいう題だったとしたら、こんにち「ロリータ」がかちえているような世界的な名声は不可能だっただろう。

ロリータの名のもとに全世界のニンフェットを独り占めにしてしまったナボコフはいくら羨んでも羨み足らない男だが、同様に全三葉虫を Trilobite の名のもとに総括した男がいる。十八世紀ドイツのヴァルヒである。こんにち彼の名を知る人は少ないが、それでも三葉虫に少しでも興味をもてば、ヴァルヒという名前には必ず出くわす。彼の名は三葉虫とともに不滅なのである。

彼の時代に発見されていた三葉虫はまだごくわずかで、彼もほとんどダドリーバグのことしか取りあげていない。しかしその後続々とふえつづける三葉虫のすべてが、Trilobita Walch のもとに分類されていくのは壮観である。こういう言い方が許されるなら、ヴァルヒは未発見のものも含めて、全世界の三葉虫をあらかじめ(!)コレクションしているのだ。


     * * *


「ロリータ」の語り手は、愛する少女のクラスの生徒名簿を手に入れたときの喜びを語っている。そこにあるのは、たんに女生徒の姓と名との羅列にすぎないが、彼にとってはこれは一篇の詩なのである。「詩だ。たしかに詩だ!」と彼はさけび、これを「名前の宝石箱」と呼んで、「これらの名前のなかに、彼女(ロリータ)の名を見るときの、しびれるようなよろこびを分析してみたい。感涙にむぜぶほど私を興奮させるものは、何だろう?」と自問する。

私はこういうナボコフの思いを、そのままジェルとアドレインの Available Generic Names for Trilobites に投影したい。アルファベット順に並んだこの属名リストは、私にとってはハンバートを熱狂させた生徒名簿の三葉虫版である。

このリストには、当時(2002年)までに知られていたすべての三葉虫の属名が載っている。しかも、模式種の詳しいデータのおまけまでつけてである。このリストを完璧に頭に入れていれば、どんな三葉虫に出くわしてもまごつくことはない。これはいわば三葉虫世界の地図帳のようなものだ。

私のもくろんでいるのは、このリストの完全なデータベース化である。そしてそれは、ぜんぶ手動で入力されねばならない。なぜなら、私の目と手を経ずにデータベース化されてしまうと、それは蒐集ではなくなるからだ。私はここでは三葉虫の名前の蒐集家として、できればそのデータベースを頭の中にそっくりそのまま記憶してしまいたいと思っている。

*1:おそらくリリス Lilith に由来する

女性と三葉虫

三葉虫と女性とは相性がわるい。私の狭い見聞の範囲でいうのだから、間違っているかもしれないが。

むかし勤めていた会社でスカルレプリカなるものを扱ったことがある。その名のとおり、動物の頭蓋骨の複製だが、いくつか化石のレプリカも混っていた。そのなかでも三葉虫は女性の嫌悪の的で、いま思えばカリメネだったが、とにかく女子社員からは蛇蝎のごとく嫌われていた。

どうもカリメネやファコプスは芋虫を連想させるらしい。ホマロノトゥスとか、てきめんにそうだろう。そんならトゲトゲ種はどうかというと、今度はトゲが脚にみえて気味がわるいという。どっちにしても浮かばれない。

私の思うのに、三葉虫が女性に嫌われる理由として、その形態のみならず、三葉「虫」と虫の字が使われていることがあるのではないか。三葉虫とくれば、だまっていても虫であることは明らかで、虫一般が苦手な人にとってはそれだけでもうぞわぞわと総毛立ってくるのではないか。

しかし、嫌悪感などというものは相対的なものでしかない。たとえば、アラクノフォビアという言葉があるほど嫌悪の的にされているクモにしても、かつてササガニとも呼ばれたように、形態的にはカニとさほど変わらない。カニが怖いとか、嫌いだとかいう人はたぶん少数派に属する。そうでなかったら、冬場の広告にカニを並べた写真があれほど出ることはないだろう。

節足動物のうちでも、カニやエビに代表される甲殻類と、いわゆる虫に代表される昆虫類とでは、ひとびとがそれらに対して抱く嫌悪感にかなりの違いがあることがわかる。

どうしてそういうことになるかといえば、いろんな理由が考えられるが、どれも掘り下げてみれば人間の身勝手きわまる偏見に帰着する。そして女性は男性よりも偏見にとらわれる率が高いのではないか?

それこそおまえの偏見だよ、といわれれば返す言葉もないが。

三葉虫は英語では trilobite で、直訳すれば「三葉石」になる。それはアンモナイトが「アンモン石」になるのと同断だ。そこには「虫」という概念が紛れ込んでくるおそれはない。もちろん形をみれば「虫」の一種であることは明らかだが、名称にはっきり出ていない分、「虫」という言葉に由来する嫌悪感は少なくなっているような気がする。

もし英語圏をはじめとする諸外国の女性が、日本人女性ほど三葉虫に対して嫌悪感をもたないことが実証されれば、私のこの考えも正当化されると思うが、どうだろう。

じっさい、虫という字ならびに音がもつニュアンスには、人の深層心理を直撃するなにかがあって、「虫」を三つあつめた正字の「蟲」ともなれば、そのパワーたるや計り知れない。三葉虫を三葉蟲と書かれた日には、虫嫌いの人はみんな逃げ出してしまうだろう。

トライロバイトを三葉虫と訳した人は、たぶん虫が好きで、虫という字を使うことに何のためらいも感じなかったと思われる。

削除予定の雑文その三

少し自分の子供のころを振り返ってみよう。

──やれやれ、ついに自分語りですか?
──まあ、そう手厳しいことをおっしゃらずに……

私が三葉虫の存在を知ったのは、小学校の低学年のころで、子供向けの百科事典にその挿絵が出ているのを見たのが最初だ。当時は怪獣や恐竜に夢中で、百科事典はかっこうの読み物だったが、やはり中生代が興味の中心で、古生代新生代はほとんど眼中になかった。

そういっても、ページを繰っていれば古生代の記事も目につくので、三葉虫の挿絵をなんとなく眺めていた記憶はある。そのときは、蓑をつけた平べったい生きもの、という印象だった。大きさは絵では分らないので、ばくぜんとウミガメくらいの大きさを想像していた。

あのとき自分の眺めていた絵をもう一度見たい、という気持はある。そして、それは必ずしも不可能ではない。というのも、最近はネットの検索機能がすばらしく、ちょっと調べれば本の名前などはすぐにわかってしまうからだ。

さっそく調べてみたところ、私の見ていた本というのは、学研から1968年に出た「標準学習百科大事典」で、その第七巻に「天文・気象・地球のすがた」というのがある。くだんの三葉虫の絵は、まずまちがいなくこの巻に入っている。

そこでこの巻を図書館から借り出してみた。表紙のデザインはだいぶ違っているが、中身はどうやら同じのようだ。逸る心を抑えつつ、ページを繰ってみると──

たしかにそこには三葉虫の絵が出ている。こういうもの。




しかし、これは私の記憶にある三葉虫の絵ではない。似ても似つかない、まったくの別物だ。

私は狐につままれたような気分になる。自分がいまのいままで信じていた原三葉虫体験が、虚偽の記憶のうえに築かれた、砂上の楼閣のようなものだったとすれば──

しかし、そうすると、私の見たと信ずるあの三葉虫の絵は、いったいだれのなんという書物に描かれていたのか? もはやいまとなっては、それを確かめるすべはない。

削除予定の雑文その二

私の蒐集欲が衰えたのは、たぶん欲しい種類をだいたい手に入れてしまったからではないか、と思っている。たったこれだけで満足なの? と驚かれるかもしれないが、まったくのところ、喉から手が出るほど欲しい、というのがなくなったのは事実だ。

蒐集の初期に興味をもった三葉虫たち。当時の乏しい見聞のかぎりで「欲しいものリスト」を作ってみたが、それをいま見ると、四年間のがんばりのおかげで、当初欲しいと思ったのはたいていその後手に入れている。

ふつうに考えれば、蒐集がすすむにつれて視野が拡大し、欲しいものは後から後からふえていくように思うが、私の場合はまったく逆で、蒐集の情熱は初期にマックスに達していて、じっさいの蒐集がすすむにつれだんだんと情熱そのものが目減りしていき、同時に欲しいと思う種類が減っていく、という道をたどってきたようだ。

というわけで、いま何が欲しい? と訊かれても返事に窮するが、当時の「欲しいものリスト」に入っていて、まだ手に入れていない種類のひとつに、モロッコのオンニア・スペルバがある。これはいまだにちょっと未練がある。

オンニア類似の三葉虫はモロッコ以外にもあちこちから出ている。しかし、私にはどうしてもモロッコ産でないとダメなのだ。なぜかというと、最初に見てつよい衝撃を受けたのがモロッコ産だったことと、保存状態やサイズのうえで、モロッコ産を超えるものが世界のどこからも産出していない、という事実がある。学術的位置づけとか、歴史的重要性とか、そんなものは私にはあまり関係がない。いっさいの文脈を取り払ったあとに残る、純粋に審美的存在として、モロッコのオンニアはいまも私を誘惑してやまないのである。

ところが、現実は甘くなくて、私の欲しいと思うオンニアはもう市場にほとんど出てこなくなっている。何度か、これはと思う個体を見かけたことはある。しかし、「まあいま買わなくても……」とか「もうちょっと安いのを……」と思って見送っているうちに、標本自体が姿を消してしまった!

そのうち、「超稀少! 入手困難! 極上!」とかいうキャプションをつけて売りに出されるときがくるかもしれない。そのときまで、私の関心は持続しているだろうか? また相応の金額を出す覚悟はできているだろうか?

まあそういっても、ほんとに欲しいなら業者にメールで問い合わせるとか、そういう行動に出るはずで、それをしないということは、やはりそれなりの欲望でしかないのかもしれませんね。

削除予定の雑文

ヤフオクをみると、新手の化石業者があらわれている。その名もGFM。といっても、ページのレイアウトや出品傾向はかつてのおなじみのMFに酷似している。私はうかつにもグリフォン・フォッシル・マスターかと思ってしまった。

アイドルマスターやらポケモンマスターがいるなら、フォッシルマスターがいてもいいじゃないか、という私の思いとはべつに、どうやらフォッシルのFとミネラルのMとを並べただけらしい。それならそれでもいいが、複数形にしておいたほうがより「らしく」なると思う。

ちなみにアメリカ人にフォッシルといっても通用しない。正しい発音はファソー。同様に三葉虫はトリロバイトではなくタイロバイトだ。

それにしても、MFの影を引きずったGFMの威光をもってしても、私にかつての標本熱を取り戻させるのは無理のようだ。不感症というか、冷感症のようで、われながらいやになる。

すいません、くだらない記事を書いてしまいました。

くだらないついでにもうちょっと書こう。標本熱を失った人間からみると、化石はどれもこれも高すぎる。これにこの値段なんてありえないでしょう、というような価格で取引されているようにみえるのだが、どうか。

そんなことはないよ、むしろ値崩れしているよ、という人もいるだろう。たしかに、ありふれたものは徹底して安い。モロッコの一般種なんて、売れば売るほど赤字じゃないかと思う。しかしちょっと目先の変ったものや、目新しいものには不当なまでに高い値段がつく。

私は4年前にパラドキシデスを1万2千円で手に入れた。そのころでもチェコ産の三葉虫は枯渇していて、見つけたときが買い時などといわれていたので、ある程度の出費は覚悟していたが、終ってみれば意外に安く手に入ったことになる。

この1万2千円ラインが一種のスタンダードになってしまって、その後もこれを超える額が出せない時期がだいぶ続いた。それを突破してきたのがMF祭りであり、私としては新たなステージに立ったような気分だったが……

いまふたたびステージを降りてみると、この1万2千円ラインが復活してきて、たいていの三葉虫が不当に高く思えてしまうのである。じっさいざっとヤフオクを見渡して、1万2千円以内で買える三葉虫がどれほどあるか。めぼしいのはまず無理とみてさしつかえないのではないか。

私はいつも、どこかの業者が目の覚めるような標本を売りに出してくれないかなあ、と思ってる。そうすれば、この長引いている停滞を終わらせることができるんじゃないか、と。

しかし、1万2千円ラインが復活してしまった現在、たとえ目の覚めるような標本が売りに出たとしても、はたして清水の舞台から飛び降りることができるかどうか、おおいに疑問だ。見る前に飛ぶことを可能にするのは、やはり盲目的情熱以外にないだろうと思うから。