出品を終えて

人の楽しみに蒐集がある。
考えてごらん、放出もある。


コレクターのなかでも、放出が好き、という人は少ないのではないか。私は根がコレクター気質ではないせいか、わりと放出は好きなほうで、買ったものの3分の1くらいは売りに出している。今回も部分化石を中心に10個あまりを出して、置き場は寂しくなったが、気分はすっきり軽くなった。

放出というのはやり始めると勢いがついてしまうことがあり、当初は予定していなかったものまで処分の候補にあがってくる。今回はかろうじて予定分だけで終ったが、棚を見渡すと、あっちにもこっちにも放出されたがっているようにみえる標本がある。これらをどうするか。そういうことを考えるのも放出の楽しみのひとつだ。

買ってくれた人々には、レプリカをおまけでつけようと思っていたが、小さい化石ばかりなので、レプリカを入れると重さが増して送料があがる。それはたぶん買い手も望まないだろう。というわけで、レプリカはそのまま残ってしまった。

自分も蒐集の初期には、業者や転売屋ではない、一般のコレクターの放出品を安く譲ってもらった。そのうちのいくつかはいまでも手元に置いて大切にしている。自分の出すものも、そういうふうに買い手に愛されればいいと思う。そしてそのためには、売り手として、せめて買い手に不快感を与えないような対応をしたいと思う。

標本は気に入ったが、売り手の態度が最悪で、それが標本に暗い影を落とす、というような場合もないわけではないのだから。

蒐集しない蒐集家

停滞が長引いている。こうも長引くと、もう停滞自体がひとつの状態、というか常態であって、いままでの熱に浮かされたような状態が異常事態だったのではないか、という気がしてくる。

現在の自分の蒐集の位置を地質年代に当てはめていえば、だいたいデボン紀に入ったあたりかなあ、と思っていたが、もう石炭紀をとうに超えて、ペルム紀に突入しているのかもしれない。そして、三葉虫に関していえば、ペルム紀の先はないのだ。

これまでのおもなエポックを考えてみる。初期の模索時代、モロッコ時代を経て、パラドキシデス革命があった。まずここでカンブリア紀が終了。

それからMF祭りがあった。これが足掛け二年ほど続いて、蒐集のオルドビス紀を現出したが、MFが去るとともにオルドビス紀も終了。

次はおそらくロシア中心時代になるはずだったが、期せずしてもちあがったレプリカ問題のため、これまでの流れが断ち切られ、シルル紀終了。これでデボン紀に突入かと思いきや、いきなりペルム紀あたりにまで飛ばされて驚いた、というのがいまの状態。

というわけで、蒐集方面はお寒いかぎりだが、三葉虫自体に対する関心が失せたかといえば、そんなことはない。それは意外にしぶとく残っている。ただ、蒐集をともなわない関心がどれほど長続きするか、そもそもそういうものが存続するのかどうか、それはわからない。しかし、先のことはともかくとして、この関心が持続するかぎり、私は三葉虫人間(trilobite person)であることを辞めないだろう。

かつてベンヤミンに熱中していたころ、遊歩しない遊歩者、蒐集しない蒐集家というものを考えて、自分はこれに当てはまるんじゃないかと思ったことがある。そしていま、現実にそういうものになりつつある自分を見出して、ついに人生の収穫期に入ったか、という感をつよくしている。

レプリカ問題

──お久しぶりです。
──やあどうも。どうです、その後は。
──いやもうダメですね、すっかりツキに見放されてます。
──レプリカなんかに手を出すからですよ。
──わたしもおおかたそうじゃないかと思ってます。
──なんにしても浮気はいけませんよ。
──そんなつもりじゃなかったんですが、結果的にはそうなってますね。
──あれからまったく収穫なしですか。
──安いのを二つ買ったきりです。とくに紹介するまでもないような、地味なのをね。
──ふうむ、まあ、あなたは基本的に地味なのしか買いませんよね。
──たしかにね。そういう意味では、原点へ回帰しつつあるともいえますね。
──そういっても、また一から始めるつもりじゃないでしょう。
──もちろんですよ。もういまになって初心者ぶってもしかたないでしょう。
──この先どうするか、展望はあるんですか。
──うーん、じつをいえば、ないんです。これまでも、こうしたいとか、こういうのが欲しいとか、はっきりした方向性があったわけではありませんが、それがますます見えなくなってきていて、もうどんなふうに集めていったらいいのか、さっぱりわからなくなってしまいました。
──それは困りましたね。
──これまでは、次にどうしようとか考える前に、目の前に標本がひょいひょい現れましたから、それに飛びついていればよかったんですが、このところそういうのが絶無で、にっちもさっちも行かなくなりました。
── 一時的なものでしょうね。
──だといいのですが、そういう状態がもうかれこれ三ヶ月以上も続いてますよ。いくらなんでも長すぎやしませんかね。
──まあ、いままでも何度かスランプはあったでしょう。それを思えばね。
──そうなんですけど、今回のはちょっと違うような気がするんです。
──というと?
──さっきおっしゃったじゃないですか、レプリカなんかに手を出すからだ、って。
──あれは冗談のつもりでしたが。
──いや、冗談どころか、肯綮に中ってます。まったく、レプリカ問題というのは私のなかで解決できない難問として居座ってるんですよ。
──そんなに尾を引くものですかね。
──自分でも意外なくらいに、尾を引いてますね。
──端的にいって、レプリカとはあなたにとって何だったんでしょうか。
──端的にいえば、そうですね、立体的になった、原寸大の、本の挿絵、でしょうか。
──挿絵、ですか?
──そう、写真じゃなくて、古い本に出てくるイラストです。ああいう古い挿絵は、現物と比べて多少なりとも理想化されてるじゃないですか。そういうものを目の前にモノとして出されたのが、レプリカじゃないかと思ってます。
──なるほど。
──ところがこのレプリカというやつ、まったく蒐集欲を刺戟しないんですね。
──そうなんですか。
──ええ、レプリカを集めるというのは、少なくとも私には考えられません。というのも、いつでも同じものが手に入ると思えば、わざわざそんなものを今買わなくてもいい、というふうになるのが当然でしょう。いつでも手に入る、だから今は買わなくていい、この状態がずっと続けば、いつまでたっても買うには至りませんよね。
──たしかに、特別な条件が加わらなければ、えんえんと先送りされていきそうですね。
──製造中止とかいうことになると、目の色変えて発注したりもするんでしょうけど。
──おっしゃることはよくわかります。
──それともうひとつ、レプリカという選択肢を念頭におくと、高額な稀少種を買うのが馬鹿らしくなる、という弊害が出てきます。いくら貴重な標本でも、見た目がレプリカより劣るんじゃつまりませんよね。たんにほんものであることだけが価値であるような標本は、私のように「かたち」を愛する人間にはどこか物足らなさを感じさせます。高い金を払って物足らなさを買うなんてバカらしいじゃないか、と思ってしまうんです。
──それはちょっと納得できませんが、そういう考え方もあるでしょうね。
──これは学術的に価値がある、といわれても、こっちは学問とはまるで無縁ですからね、ちょっと困ってしまいますね。
──学者になったつもりで眺めていればいいんじゃないですか。
──いやですよ、そんなめんどくさいことは。
──せいぜい論文を斜め読みする程度でしょうかね、われわれとしては。
──その程度ですませているのが無難でしょうね。
──しかし、論文というか本というのは読んでいるとおもしろいものですね。
──それは私も感じていて、私の化石蒐集を支えているのは、片手に標本、片手に文献で、この両者が車の両輪のようにうまく連動して私を導いてくれました。そこへ今度、レプリカなるものが加わったわけです。
──三者三つ巴の状態ですかな。
──いえ、三つ巴でなくて、「文献 + レプリカ」対「標本」という図式です。レプリカというのは、理想化が進んでいる分、文献との相性はいいんですよ。それにどっちも複製可能という点で共通しています。つまり、レプリカがここに加わることで、標本と文献という幸福な二つ組(binary)に変化が生じて、さっきいった「文献 + レプリカ」対「標本」といういびつな関係ができてしまうんです。
──つまるところレプリカというのは、エデンの園で幸せに暮していたアダムとイブを誘惑した蛇(サタン)みたいなものでしょうか。
──位相は違いますが、そう考えてもいいと思います。そこで、この相性のいい文献とレプリカが、それだけで新たな二つ組を作って、標本を排除しようとするんですね。まったくレプリカというやつは、蛇のように油断のならない誘惑者です。
──エデンの園を追われた二人は、これからどうなるんでしょうか。
──それは私にもわかりませんよ。どこかべつのところへ行って暮すしかないでしょうが、どのみち今までと違って根無し草として生きていくほかありません。もう二度と幸福なエデンの園には戻れませんね。
──心細い話ですね。しかし、私がいつもいうことですが、ものごとに偶然はありません。そうなったのも必然なら、そこから抜け出せるかどうかも必然です。だから、あなたがどう動こうと、未来はもう決まっているんですよ。
──そういうことなら気は楽ですね。もうひとあがきしてみるか、なにもせず先細りするに任せるか、どっちにしても大勢に影響はないので、できる範囲で試行錯誤してみることにしましょう。
──聖書にも「さがせ、さらば見出さん」とありますよ。健闘を祈ります。
──ありがとう。それじゃ、また。

お知らせとお詫び

最近書いたいくつかの記事は、2、3日したら消すつもりだったが、コメントをいただいたので非常に消しづらくなった。コメントに著作権があるかどうか、とかそういう問題ではない。こういう人の来ないブログにわざわざコメントを書いてくださる、それがどれほどありがたいことか、身に沁みて分っているので、削除するに忍びないのである。それは人の善意までいっしょに消し去ることだ。

とはいうものの、過去に書いた記事が200を超えてきて、それもつまらない記事が多量にあるのが気になっていた。こんなブログでも、たまに見に来てくださる新規の方はいる。そういう人が、読んでも読んでも終りにならない、しかもつまらない記事でいっぱいの状態に辟易している様子がありありと想像できるので、思い切って半分近くの記事を削除した。もちろんコメントもいっしょにである。

というわけで、せっかく書いてくださったコメントは消えてしまいました。まったくもって申し訳ないことで、いくら恨まれても仕方がない。こんなやつのところにもうコメントなんか書くか、というふうに思われても仕方がないのだ。

しかしいっぽう、自分がコメントを書くことを考えると、だれかのブログに書いたコメントがいつまでも残るのはあまり好ましくない。私の書くコメントは、そのときかぎりの会話のようなもので、音声と同様、文字も消えてしまってぜんぜんかまわないのだ。

そう考えてくると、そんなに神経質になることもないか、という気がしてくる。もちろん、これは私の考えであって、他人様もそう考えるかどうかは別問題だ。

まあいずれにせよそういうわけなので、これからもコメントのあるなしにかかわらず、どうでもいい記事はある程度の時間が経ったら削除しようと思う。変な話だが、ブログ記事というものはそういう一時的なもので、書籍みたいにいったん出ればいつまでもあるというものではない。ブログにかぎらず、ウェブの記事はエフェメラのようなもので、リンク切れなどは日常茶飯事に属する。

では、なんでそんなつまらない記事を書いて投稿するか、といえば、定期的に見に来てくださる少数の方々には、ちょっとした暇つぶし程度の楽しみを与えることができるのではないか、と考えるから。消すつもりだった「レプリカを集める男の話」だとか、「コレクター失格」だとか、そんなものでも、なんとなく書きたい気になったから書いたのだし、自分だったら他人の書いたそんな話は読みたいと思うだろう。

というわけで、これからも埋め草的な記事は書いていくと思うし、しばらくしたらそんな記事が消えていることもあると思う。すべては私の気分次第なので、納得のいかない点があっても、また citarius が阿呆なことをやっとるわい、というくらいの気持で眺めていただければ幸いです。

ブマストゥスについて

フォーティの本の図版で見て以来、ブマストゥスには特別な関心をもっていて、いつかは現物を、と思っていたが、なかなか目にする機会がない。それもそのはずで、これは英国のシルル紀の産なのである。そんなものが私のところへ廻ってくるはずもないのだが……

それだけに、この前買ったレプリカのなかに、次のようなのを見つけたときは、思わず快哉を叫んだ。



これこそあのフォーティの本で見かけたブマストゥスではないか。そう思って調べてみると、どうもブマストゥスではなくてキバンティクス(Cybantyx anaglyptos)という種類のようだ。キバンティクスは1978年に記載されているから、わりと新しく見つかった種類のようだが、じつは以前から Illaenus (Bumastus) insignis という名前で知られていたものと同じだという説もある。

もしそれがほんとなら、ソルターにまでさかのぼる古典的な三葉虫なので、フォーティがこれをブマストゥスの名で呼んでいてもおかしくない。たとえばエルドレジオプスをファコプス・ラナと呼ぶように。

じっさい、見れば見るほど両者は瓜二つだし、そのボディラインは数あるイレヌス類のなかでも際立って優美だ。


左がフォーティの本のブマストゥス、右がキバンティクスのレプリカ


レプリカながら、じつにたまらん三葉虫であり、その丸みを帯びたふくよかなラインは、いっそけしからんといってもいいくらいだ。





キバンティクスやブマストゥスは厳密にはイレヌス科ではなく、姉妹科のスティギナ科に属するらしい。このあたりの分類は微妙だが、本種を見ていると、どこかパラレユルスを思わせるところもある。パラレユルスまでくると、スクテルムまではあと一歩だ。こうして、スティギナからスクテルムまで、ゆるやかに形態的な連鎖をたどることができる。